スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * -

中傷(運命のひと 第8回)

【中傷】根拠のないことを言って、他人の名誉を傷つけること 広辞林より
************************************ 
ひかるの予感は的中し、それからも嫌がらせが続いた。
 消しても消しても、ひかるたちの部屋の扉には、赤いペンキがべっとりとつけられた。時には卑猥な言葉が、時には罵倒やあざけりが。
 その次には、郵便受けがこわされ、続いて怪文書がマンションの共用スペースに貼り付けられた。いわく、志保里は「魔性の女」で、社長の立石を籠絡(ろうらく)して愛人となり、仕事もしないでこのマンションに住み着いているのだと。
 ひかるは憤怒に駆られながら、その怪文書を破り捨てたが、マンションのゴミ箱には同じチラシが何枚も捨てられていたので、それが全ての部屋に配られたのは間違いなかった。
 それまで親切にしてくれた人たちは、さーっと潮が引くように遠ざかり、遠巻きにひかるたちを眺めているだけだ。まるで、ひかるたちが厄介な病原菌であるかのように。
「お母さん、立石のおじさんに相談しよう。きっとおじさんなら何とかしてくれる」
 だが、ひかるがそう言っても、志保里はただ首を振るだけ。ひかるには母の気持ちが分からない。だって、こんな事、許せるはずがないではないか。だから、こんな卑劣な嫌がらせで泣きたくない。こんなことで泣いてたまるもんか。ひかるは唇をかみしめ、ただ黙々と後始末をした。
 けれど、不安げな顔をした三山先生に呼び出され、一枚のFAXを見せられたときには、青ざめ、血が滲むほど唇をかみしめても、目の奥がじんじんと痛くなった。泣いた方が楽だと解っていたけれど、それでも涙を流したくはなかった。
 そのFAXには、マンションに貼られたと同じような中傷が書き連ねられていた。「スキャンダルにまみれた女の娘を在学させておいていいのか。名門私立中学の名折れであり、受験を控えた子どもに与える影響が心配である」という言葉まで付け加えて。
「もちろん、こんな事であなたが退学になることはないのよ。それは校長先生も認めてくださってます。でも、これはどうやら同じクラスの人たちにも届いてるらしいの。先生がHRで注意するし、保護者の方にも連絡するけれど・・でも、あなたにはつらいことになりそうだから」
 ひかるは顔を上げることができなかった。
 教室に入ると、クラスメートが遠巻きにひかるを見ているのが解る。マンションの人たちと同じ目をしてる、と気づいた。好奇と軽蔑と、そして異質なものを眺めるときのわずかな恐怖・・
 そのまま飛び出していきたい気持ちに駆られたが、ひかるは何とか自分の席に着いた。逃げてはいけない。逃げたら、あの中傷に屈したことになる。
 そんなひかるに、晃司が声をかけた。「大丈夫か?」
 ひかるは弱々しいながらも、何とか笑顔を向けた。「大丈夫。全然」。
 その時だった、からかうようなつぶやきが聞こえた。「兄妹だったりしてな、あの二人」。
 瞬間、晃司が躍りかかった。相手は、いつも成績や人気で晃司の後塵を拝している野上だった。野上は逃げる暇もなく、晃司に胸ぐらをつかまれ、後ろの壁にたたきつけられた。見ていた女子達から、「きゃー」という悲鳴が上がる。殺意に近い激情を晃司から感じ取ったのだ。
 さらに、衝撃にふらついた野上の顎をめがけて、晃司のパンチが刺さるまさにその一瞬前、裕樹のガッシリと肉付きのいい腕が、晃司を抱き留めた。
「やめろよ、晃司」
 晃司はなおも拳を振り上げようとしていたが、裕樹の吐き捨てるような「そんなヤツ、殴る価値もねぇ」という言葉を聞いて、やっと少し力が抜けた。聡美が晃司に近寄って囁く。「そうだよ、そんなヤツ殴ったら、余計にひかるが傷つくよ」
 言われて、晃司はあわててひかるの方を振り返った。だが、ひかるの姿はもう、教室にはなかった。

 こらえていた涙がほとばしり出る。負けまいとしたのに、泣くまいとしたのに。かみ殺しても次から次へと嗚咽が出てくる。ひかるは、果樹園の木々の間に隠れ、膝を抱えて泣いた。このままでは家に帰れない。泣くならここしかないのだ。泣ける場所さえ、ひかるにはない。
 と、足音が聞こえて、ひかるははっと顔を上げた。男が立っている。中年の、教師ではない、それでもどこかで見たことのある顔だった。男は、ひかるの涙に濡れた顔を見ても顔色一つ変えなかった。
「警察の者だけどね」
 言われて思いだした。父の遺体が運び込まれた警察にいた、刑事らしき男だ。
「ちょっと聞きたいことがあって来たんだが、今、大丈夫かね」
 ひかるはあわてて涙を拭いた。思いやりからなのか、それとも全く関心がないのか、刑事はそれを見ても何も言わず、何も聞かなかった。ひかるがうなずくと
「お父さんの件だが・・目撃者が現れてね」
「目撃者?誰ですか?まさか」
「まさか、何だね?心当たりがあるのか」
「いえ」
 ひかるは沈黙した。森川涼かと思ったけれど、それを刑事に口にするのは憚(はばか)られた。刑事はそれ以上追求はしてこず
「正確には目撃者と言うんじゃないが、帰宅途中のOLが、悲鳴を聞いている」
「悲鳴?」
「うわっと言うような、驚きの声だったらしい。その次の瞬間、中年の男性がはねられるのを見た、と」
「それって、どう言うことですか、もしかして」
「あの日は、信号機の故障があって、しばらく電車が止まっていたから、ダイヤがかなり乱れていて、ホームにはいつもの何倍もの人がいた。隣の駅だが、君のお父さん以外にも、ホームに転落しそうになった人がいたのもわかった」
「それじゃあ」
「事故だという結論が出たんだがね」
 刑事はそこでおもむろに口を閉ざし、ひかるを見つめた。
「奇妙な手紙が来た」
 ひかるが怪訝そうな顔をするのを見ながら、刑事は、一枚の紙切れを取り出して読み上げた。
「橘ひかるのお父さんは殺された。彼女も危険だ。守ってあげてください。でないと死神が彼女を襲う」
 ひかるはきょとんとした。そして、次の瞬間、森川涼の怯えた様子を思い出した。
 多分、その手紙を書いたのは森川涼だ。だけど、どうして?警察にそんな手紙を送るなんて、人騒がせだけのためだけにしては大胆すぎる。
「心当たりはあるかね。この手紙の差出人か、あるいはこれに書かれていることについて」
 ひかるはためらった。森川涼の名前を出すことに。
 その時、晃司の心配そうな声が聞こえた。
「どうした?大丈夫か?」
 
 森川涼の名前を出すまいとしたひかるの配慮は無駄になった。刑事から手紙のことをきいた晃司は、あっさりと、「そんなことをするのはあいつしかいません」と言い切ったのだ。森川涼がみんなにどう呼ばれているかも。
 刑事は、その手紙に興味を失ったようだった。そして今度は志保里に捜査の結果を伝えにいく、とそそくさと立ち去った。
 けれど、ひかるは森川涼のことが気になった。どうして涼はそんなことをしたのか。一度、会って話をしたい。そうだ、しなければ。
 晃司はそんなひかるを見つめていたが、ぽつりと呟いた。
「ごめんな」
「ううん。だって、あんな事言われたら、怒って当然だもん」
「違うんだ。そうじゃなくて・・今、ひかるたちを苦しめてるのは・・俺の母親なんだ」
 ひかるは絶句した。また、あの人が、立石美和子があんな事をしているのか。それほどひかると母を憎んでいるのか。その底なしに見える憎悪の深さに、ひかるは身震いした。

運命のひと 第8話終わり 第9話へ続く
dancingwolf * - * 00:18 * comments(2) * trackbacks(0)

密告(運命のひと 第7回)

【密告】こっそりと告げること。密かに告発すること。訴えること。  広辞林より
**********************************
 立石が、ひかると志保里を連れて行ってくれたのは、立石の会社が持っているマンションだった。社員寮のような形で、本社に転勤してきた社員を住まわせているのだという。
「ここなら安心だよ。志保里さんは、一応『管理人』ということにして。でも、メンテナンスや掃除は別の人間が来るから、さしたる仕事はない。ここでゆっくり休むといいですよ」
立石はそう言って、ひかるを安心させた。
 ひかるの学校には少々遠いが、30分ほど早く家を出ればいいだけだ。
 何より、母が体を休められるし、ホテル代を心配することもない。学校から早く帰って、私が管理人の仕事を手伝えばいいのだし、と言うひかるに、志保里は折れた。立石にこれ以上世話になるわけにはいかないと志保里は固く決意していたのだ。だが、「よかったね」と心から喜ぶひかるの顔を見ると、立石の申し出にうなずかないわけにはいかなかった。

「一度、ゆっくり話をしなきゃと思っていたのよ」
 三山先生はそう言って、ひかるの顔を心配そうに覗き込んだ。
「先生、何の役にも立てなくて、ごめんなさいね」
 そう言って頭を下げてくれる三山先生は、本当にいい人だとひかるは思った。
「大丈夫です。今は、母も少しずつ元気になってきたし、今は、知り合いのお家にお世話になって、学校もちゃんと通えますから」
 ひかるがそう言うと、三山先生は明るい顔になって、いろいろとひかるの相談に乗ってくれた。以前希望していた私立の進学校に行くのは難しいかもしれないが、ひかるの成績なら都立のかなりいいランクの高校には入れるのは間違いない。奨学金もあるし、私学だって、成績優秀者には学費を免除してくれるところもある。
「勉強したいという気持ちがある以上、あきらめないで欲しいの」
 三山先生にそう言われ、ひかるはうなずいた。そう、ひかる自身は勉強したい、高校にも行きたい、できれば、「医師になりたい」というかねてからの夢を実現したいと思っていた。医師になるのは難しいかもしれないが、いつか、頑張っていたら夢は叶うかもしれない。父の言ったとおり、9回裏ツーアウト、ツーストライクでも、ゲームは終わっていない。どんなに点差が離れていても、ひっくり返すことはできるかもしれないのだから。

 「これ、食わねえ?」
 目の前にコロッケが差し出された。
「肉の小林のコロッケ、揚げたてだぜ」
 裕樹だった。食いしん坊で有名な同級生。
「珍しい、裕樹が他人に食べ物を分けるなんて。天変地異が起こりそう」
 聡美がそう言って笑った。
「もしかしてお前、ダッシュで駅前まで行って買ってきたわけ?その足を体育に活かしてたら、もうちょっと内申上がってたと思うぜ」
 晃司もちゃかした。
「何だよぉ、お前たちには絶対やんねーからな」
 そう言って裕樹は、袋の中のコロッケにむしゃぶりついた。
 ひかるはアツアツのコロッケを扱いかねながら、声を出して笑った。父の死以来初めてあげた笑い声だった。
「よかった」
 そんなひかるを見て、聡美が涙ぐむ。ああ、心配してくれてたんだなと、ひかるの胸も熱くなった。
「早く食べなきゃ冷めちゃうよ」
 コロッケを口いっぱいにほおばったままの裕樹の言葉に、ひかるはまた笑い転げた。聡美も晃司も大声で笑った。全てが、元に戻ったかのように。
これからは、こうして笑っていよう、ひかるは心の中で決めた。

 だから、森川涼の言葉は忘れることにした。立石のおじさんの言うとおり、父が殺されたとは思えない。事故か自殺か、警察はまだ結論を知らせてくれないが、殺人なんてあり得ない。どうして見ず知らずの森川涼があんな事を言ったのかわからないが、忘れよう。それが一番だとひかるは思った。

 やっぱり、彼女は信じてくれないんだ・・森川涼は、何日も毛布をかぶったまま窓辺によって、ひかるの姿を探した。もしかしたら、彼女が訪ねてくるかもしれないと思って。彼女が来てくれた方がいいのか、それとも信じてくれない方がいいのか、涼は自分でも解らなかった。僕の言うことを信じてくれたら・・きっと死神はそれを許さないだろう。僕を殺しにやってくる。
 彼女が信じなければ・・僕は安全だけど・・それでいいのだろうか?次に、彼女の身に何かが起こることはないだろうか。
 涼は思い出していた。中学に入ったときから、彼女はいつも涼の前にいた。正確に言うと、涼がいつもその姿を目で追っていたのだ。どうしてそれほど彼女に惹かれるのかは解らなかった。一度だけ、涼の書いた詩が教育委員会の賞を取ったことがあって、それが校内に掲示されたとき、足を止めて読んでくれ、「私、この詩、好きだわ」と呟いてくれたからかもしれない。
 それとも、遠足でバスに酔い、青い顔でしゃがみ込んでいたとき、同じクラスでもない彼女が、「良かったら、どうぞ」と、レモンの輪切りをくれたからかもしれない。それとも、飼い犬のマークを散歩させているとき、彼女がマークの頭をなでて、「可愛い、いい犬ね」と言ってくれたからかもしれない。
 でも、どうせどのときも彼女は自分なんか見ていなかった。自分が誰なのかも彼女は知らないままだった。あの時、果樹園で彼女の父親は殺されたのだと告げるまで。
 待てよ、あれは本当に殺人だったんだろうか。自分でそう思いこみたかっただけじゃないんだろうか。彼女に近づきたくて、だからあんな事を言ったんじゃないんだろうか。
 涼は強く首を振った。わからない。わからなくなってしまう。でも、これだけは解る。死神は、死神もまた彼女に魅了されている。だから・・彼女は危険にさらされるかもしれない。彼女がいつか死神の手に落ちたら?涼は背筋をふるわせた。それだけはいけない。何とかしなければ。
 よろよろと机に近づいて、ノートを手に取った。一枚を破って、ボールペンで書き始める。「橘大介さんは殺されました。ホームから突き落とされたのです」
 なるべく自分の筆跡が解らないように、定規を使って、カクカクとした文字を書いた。
「橘ひかるさんを守ってください」
 死神の名前は書いた方がいいのだろうか。でも、警察が死神に話を聞きにいったら、きっと自分は殺されてしまう。涼は生唾を呑み込んだ。ボールペンは止まったままになった。

 親子二人の生活は、淋しいけれど、順調だった。
 地方からやってきた立石の会社の社員はみんな親切で、ひかるが母親の手伝いをしているのを見て、「えらいなあ」と褒めてくれ、その家族も何くれとなく温かい言葉をかけてくれた。故郷から荷物が送られてきたから、とその土地の名産品をお裾分けしてもらったりもした。
 父がいないのは淋しい。自分の家も恋しい。でも、父が死んでからの悪夢の日々を思い出すと、今の暮らしは平穏で、優しい。こういう暮らしを続けていければいい、ひかるは何かを悟ったような気がした。無理矢理大人にされたような気もする。それでも、今は、この静かな暮らしがあればよかった。
 
 だが、その静けさは突然うち破られた。
 学校から帰ったら、志保里が青い顔で玄関の扉をこすっていた。赤いペンキでベッタリと書かれた卑猥なマーク。朝まで親切にしてくれていた人たちが、遠巻きに眺めている。
 信じられない思いで、ひかるは立ちつくした。平和な生活、それは短い夢だったのか。また悪夢が続くのだろうか。崩れ落ちるような絶望感が、ひかるの心を真っ黒に塗り潰していった。

運命のひと第7話終わり 第8話へ続く
dancingwolf * 連続小説 * 12:49 * comments(0) * trackbacks(0)

猪突猛進 (運命のひと 第6回)

【猪突猛進】向こう見ずに突進するたとえ。イノシシのようにまっしぐらに突き進むこと。周囲を省みない行動の場合にも使う。四字熟語活用事典 創拓社刊より
**********************
 授業が終わると、C組の生徒に森川涼のうちを教えてもらい、ひかるは校門を飛び出した。学校をやめようとしたことも、先生に相談しようとしたことも全て忘れたまま。
 だが、駆け出したひかるの前に、大きな陰が立ちふさがった。ひかるはぎょっとして、立ち止まった。
「ひかるちゃん」
 その声は優しかった。聞き慣れた、深みのある声だ。目を上げると、立石のおじさん、立石雄一が立っていた。ひかるは一瞬、立石の背後を、怯えたような目で見た。そこに美和子がいるような気がして。立石はそんなひかるの様子に気づいたのか、淋しげな微笑を浮かべながら言った。
「大丈夫だ、おじさん一人だよ」と。
 立石のおじさんが自分たちのことを案じ、わざわざ平日のこんな時間に学校に来てくれたのがわかって、ひかるはありがたかった。それでも、母のこと、自分のことを相談するより先に、言葉が飛び出した。
「おじさん、お父さんは、殺されたのかも知れないの」と。

「ひかるちゃんは、お父さんが自殺したんじゃないと思っているんだね」
 立石のおじさんの言葉に、ひかるは素直にはうなずけなかった。つい数時間前まで、森川涼のあの言葉を聞くまで、ひかるは父が自殺したものだと思いこんでいた。
 多額の借金を背負っていたことを知らされ、不倫相手がいたこともわかり、その上、その不倫相手が親友の奥さんで、しかも、その人と駆け落ちをするつもりだった・・それなら父が自殺を思いついても、発作的に電車に飛び込んでも、何も不思議はない。
 ひかるが黙りこくったのを見て、立石は、ゆっくりとコーヒーをすすった。
 駅前のファミリーレストランの片隅は、周囲のことなど気にせず、傍若無人な大声と高笑いを繰り返す女子高生達の集団に囲まれ、二人の話に興味を持っているものなど誰もいない。自殺だの殺人だの、物騒な話をするにはもってこいの場所だった。
 ひかるを急かすこともなく、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる立石の顔を見て、ひかるは、やっぱりおじさんは大人だ、それも頼りになる大人だ、と実感した。
「実は僕も、きみのお父さんが自殺なんかするはずがないと思ってた。だって、そうだろう?」
と、笑顔を見せた。
 そう、父は自殺なんかするタイプじゃない。いつもひかるに言っていた。
「人間はあきらめた時点で負けなんだよ。お父さんは絶対あきらめない」
 父の好きな野球チームが大差で負けていても、父は最後までゲームを見た。
「9回ツーアウト、ツーストライクからでも、ゲームはひっくり返せる」
そう言いはって、チャンネルを変えさせてくれなくて、ひかるはブウブウ文句を言ったものだ。
 父はあきらめるのが嫌いで、ちょっと強引で、自分の思ったままに突き進んでいく、イノシシのような人だった。「猪突猛進」という言葉が似合う、と自分で言って笑っていた。
 父のことをこんな風に思いだしたのは久し振りだった。あの、父が死んだ日以来、ひかるの中で、父は全く未知の人のように思えていたから。
 ひかるはきっと顔を上げた。
「私、やっぱり信じられないんです。お父さんが自殺したなんて」
「そうだね。そうだろうね」
と、立石もうなずいた。だが、一つため息をつくと、
「でも、解らないんだ、おじさんも」
そう言った声が、とても淋しげで切なげだ、とひかるは気づいた。
「きみのお父さんは、到底自殺なんかしそうな人じゃない。でも、あれほどパワフルに生きてきた人間なんだ。その分だけ、何かが切れたら、アッという間に転落してしまうんじゃないだろうか。私のような人間には考えられないくらい深い闇にね」
 ひかるは、「でも」と言いかけて思いとどまった。そうだ、お父さんは、この人の奥さんと不倫をしていたのだ。そんなこと、お父さんが絶対しそうもないことなのに、でもしていたんだとしたら・・自殺だって、絶対しない、なんて言えない。
「イヤ、もっと単純なことなのかも知れない。お父さん会社のことで金策に走り回っていた。家族には見せまいとしていたんだろうが、とても疲れていたんだと思う。あの何日か前、私はお父さんと会ったけれど、随分疲れた、どす黒いような顔色をしていてね・・胸が痛んだよ」
 そんなこと、ひかるは知らなかった。確かに毎日父の帰りは遅く、疲れていたのは知っている。でも、それは「いつものこと」だと思っていた。立石のおじさんが胸を痛めるような、そんな状態だったなんて。いったい自分は父の何を見ていたのだろう。ひかるの胸も、鋭い手でひねりあげられたかのように痛んだ。
 立石のおじさんはひかるの傷みを悟ったのだろう、あわてて言葉を足した。
「あまりにも疲れたお父さんは、何かのはずみで、ホームから転落したのかも知れない。夕方の、ちょうどラッシュアワーの時だ。人に押されて、よろめいたのかも知れない」
 父はそれほどまでに疲れていたのだろうか。フラフラとホームを歩き、やがて転落してしまう父の姿が脳裏に浮かんで、ひかるはたまらなくなった。
「私にもわからない。一体何が起こったのか。だけどね・・どう考えても、殺されたというのだけは納得がいかないんだよ」
 ひかるは、それまでうつむいていた顔を上げた。
「お父さんを殺したいほど恨んでいる人間がいたとは思えないんだよ」
 そう言ってから、立石雄一は苦い微笑を浮かべた。
「世間の人は、それは私くらいだと言うんだろうな」
 微笑だったけれど、泣き顔のようにもひかるには見えた。おじさんは自分の奥さんと、そして親友にも裏切られたのだ。二重に傷つけられたのだ。
「だけど、私は君のお父さんを恨んではいない。少なくとも、殺すなんて考えもつかない。生きていて欲しい、生きていて欲しかったよ、今でも」
 その声に涙が含まれているようにひかるには思えた。おじさんを慰めてあげたいけれど、どうしたらいいのか、ひかるには解らなかった。
「お父さんにお金を貸している人たちもね、お父さんが死んでも得をするわけじゃない。むしろ、生きて働いて、金を返してくれることを望んでた。まだ若いし、起死回生のチャンスは山ほどあったんだから」
 立石は再びコーヒーカップを取り上げたが、それを口元に運ぼうとはしなかった。
「ひかるちゃんの気持ちは分かる。自殺なんて信じられないことだ。でも、殺人はそれ以上に信じられない。晃司の言うとおり、その子のいうことは気にしない方がいいと、おじさんも思う」
 ひかるはうなずいた。こうやって、立石のおじさんに一つ一つ説明されると、森川涼の言ったことがどれくらい馬鹿馬鹿しいことだったかが解る。そんな言葉に興奮してしまった自分も、愚かだったと改めて思った。
「それより、お母さんは大丈夫なのかい?いったい、今までどこにいたの?」
 ひかるは家を出てから以降のことを説明した。けれど、世話になっていた母の友人に疎まれて追い出されるように家を出たことは言えなかった。
 だが、何も言わないのに、立石のおじさんには事情がわかったのではないかとひかるは思う。おじさんの目が、ますます優しくなったからだ。
「もう大丈夫だ。心配しなくても、ひかるちゃんとお母さんの面倒は、おじさんがみるから」
 おじさんがそう言ってくれるのを、ひかるはずっと待っていたような気がする。けれど、それは口に出してはいけない言葉だった。だって、お父さんは、立石のおじさんの奥さんと・・そして、あの人はひかるたちを、特に母を憎んでいる。まるで誰かが許可してくれたら、すぐその場で殺してしまうであろうくらいに。
 ひかるが黙っているのを見て、立石はまた悲しげな微笑を浮かべながら言った。
「心配しないでいい。このことを知ってるのは、おじさんだけだから。だから、ひかるちゃんはちゃんと今まで通り、勉強を続けること。お母さんの面倒もみてあげること」
 そう言われて、ひかるはうなずいた。でも、立石のおじさんはどうしてこんなに良くしてくれるんだろう。お父さんは親友のおじさんを裏切ったというのに。
 そんなひかるの心の中つぶやきを漏れ聞いたかのように、答えが返ってきた。
「君のお父さんが逆の立場だったら、同じことをしたさ」
 そうなのだろうか。ひかるには想像ができなかった。ただ、これでお母さんにもう無理をさせる必要はなく、自分も学校に行けるのだ。それだけはありがたかった。そして、今考えるのはそれだけでいいとひかるは思った。

 小柄な少年は、布団にくるまって、ベッドの中で震えていた。
やってくる。あの死神がやってくる。バラしてしまったから。本当のことを。きっと自分も突き落とされる。あのおじさんと同じように、駅のホームからか。それとも駅へ向かう陸橋の上からか。それとも、学校の屋上からか。
 少年は布団にくるまったまま、そっと窓にいざり寄って、外を覗いてみた。誰もいない。死神は来ないのだろうか。いや、油断はできない。しばらく、ううん、もうずっと学校に行くのはやめよう。少なくともここにいれば、お母さんや飼い犬のマークがいれば、死神だって僕を殺せやしないはずだ。
 でも、一つだけが気がかりだった。あの子は、僕の言うことを信じなかったんだろうか。あんなに勇気を奮って告白したんだのに。僕の命がかかっているというのに。
 無理はないのかも知れない。だって、僕は学校にも行かない、妄想癖のある、嘘つきの涼なんだから。少年はベッドに戻りながら呟いた。
 でも、僕は見たんだ。これは本当なんだ。これだけは本当なんだ。あのおじさんは殺されたんだ。ホームから、死神に突き落とされたんだ・・

運命のひと 第6話終わり 第7話へ続く
 
dancingwolf * 連続小説 * 12:18 * comments(0) * trackbacks(0)

虚言

【虚言】そら言。嘘。虚辞。偽言。きょごん。広辞林より
****************************************
 小さくなって体をすり寄せると、いい匂いがする。母の匂いだ。香水のにおいでも、シャンプーの香料でもない。もっと清々しい、それでいてほのかに甘い、林檎の花のような香り。
「お母さんはいい匂いがする」
 そう言いながら、ひかるは眠りに落ちた。小さなベッドに二人で眠るのもいいことがあるものだ、と思いながら。

 ひかるの寝息を聞きながら、志保里は天井を見上げていた。
 駅に近い、古いビジネスホテルのシングルルーム。そこを見つけてきたのはひかるだった。町中で動けなくなってしまった志保里のかわりに、ひかるは走り回って一泊3500円のこの部屋を見つけてきたのだ。
「二人で泊まると高くなっちゃうから、私、後からこっそり入っていくね」
 ひかるはそう言って笑顔を見せた。志保里を励まそうとして。
 この子は強い、と志保里は我が子の寝顔を見つめた。
 自分もずっと強く生きたいと思っていた。誰かに保護されたり、守られたりするのではなく、自分の力で、自分の思うままに生きていきたいと。だが、それを一度も実行できたことはなかった。こわれかけの心臓がそれを許しはしなかったのだ。
 でも、この子は違う。自分にも、あの人にもなかった強さを持ち合わせている。どうぞ、この子がこのまま、力強く生きていってくれますように。たとえ何があっても。
 志保里は祈りを込めてひかるの髪をなで続けた。

 ひかるはずっと考え続けていた。このまま学校を休んでも、卒業できるだろうか?できるなら、このまま、学校には行かず、何かアルバイトを見つけて、働くしかない。ひかるは、母の手持ちのお金がもう底をついているのを知っている。そして、やはり母に、仕事をするのは無理なのだ。体が弱いからではない。母を見る男達の目を想像することがイヤだった。今までも、どんな面接にいってもうまくいかなかったのは、母にキャリアがないこともあっただろうが、母を薄汚い目で見る男達がいたこともあったに違いない。
 母の、あの陶器のような美しさを汚すわけにはいかなかった。
 先生に相談してみよう、とひかるは考えた。学校に通えないのはたまらなく悲しいけれど、そして多分高校に通うこともできないのには絶望感がこみ上げてくるけれども、それでも自分と母は生きていかなければならないのだ。
 頑張って働いて、慣れてきたら夜間高校へ通うこともできる。大検に通ったら、いつか大学に行くことだってできる。生きていれば、きっと何とかなるに違いない。
 ひかるは何度もその言葉を心の中で繰り返した。そう、生きていれば、きっと何とかなる。それは、死を選んで、一人で逝ってしまった父に対する猛烈な反発心だった。

 もしかしたら今日でこの学校ともお別れかもしれない、と思うとさすがに淋しい。教室の窓から見える風景、クラスメートの笑い声、授業開始を知らせるチャイムですら、愛しいような気になる。中でもお気に入りの果樹園と別れるのは辛かった。理事長の趣味で作った果樹園は、生徒にすっかり忘れられた存在だったが、ひかるはここが好きだった。ひと気がなくて、静かで、そして季節ごとに緑の香りが立ちのぼる。
 一本一本の木々に別れを告げるように眺めていると、誰かの視線を感じた。振り返ると、立っていたのは、キョトキョトと落ち着かない目をした、小柄な少年だった。同じクラスではない。だけど同学年らしく、同じ色のバッジをつけている。
「何か用?」
 と、ひかるが一歩近づくと、少年は臆病な小動物のように後ずさりながら、甲高い声で言った。
「僕、見たんだ」
「見たって、何を」
「見たんだ。きみのお父さんが」
「え、お父さんが何?」
 ひかるは思わず大きな声を出した。少年は怯えるように
「きみのお父さんは、殺されたんだ」
 そう言い放つと、走り去った。
 ひかるはショックのあまり、声が出なかった。いったいどう言うことなのだろう。
 はっと我に返って、少年を捜した。だが、その姿はもう見えなかった。あわてて校舎の方へ駆け戻ると、晃司が向こうからやってくるのに気づいた。
「ね、今、ここを通った子、見てない?」
「ここを通った子って」
「男の子、同じ学年で、でも、同じクラスじゃなくて。キョトキョトしてて、とても小さな子」
 咳き込んでたずねるひかるに、晃司は不審な目を向けた。
「たぶん・・森川じゃないかな?」
「森川、くん?」
「ああ、C組の森川涼。さっき、ここを走っていった」
「C組ね、ありがとう」
と、駆け出そうとするひかるを晃司がとどめた。
「あいつなら、もう帰ったぜ」
 帰ったと言っても、まだ昼休みなのだ。ひかるは一瞬きょとんとして晃司を見つめた。
「あいつがどうかしたのか?」
「お父さんは、殺されったっていうの」
 ひかるの言葉に晃司は眉をひそめた。
「ね、どういうことだと思う?お父さん、自殺じゃなかったのかな。誰に殺されたんだろ」
 興奮するひかるを、晃司は痛ましげに見ながら、吐いて捨てるように言った。
「あいつのいうことなんか信じちゃダメだ」
 森川涼には虚言癖があるのだという。小学生の頃から、様々な嘘をついては周囲を混乱させてきた。それが原因で何らかのトラブルを引き起こしたのか原因は定かではないが、今はほとんど学校には出てこない。ほとんど引きこもりの状態だと言われているらしい。
 ひかるの興奮は、見る間にしぼんだ。
 しかし、どうして森川涼は、そんな嘘をついたのだろう。同じクラスになったこともないひかるの父親のことで。
「人騒がせをしたいんだよ、あいつ。ビョーキだから」
 そう言って、晃司はひかるの肩をつかんだ。
「そんなことより、大丈夫なのか、お前」
 ひかるを覗き込む晃司の目には、ひかるのことを思う気持ちがあふれていて、ひかるは危うく泣きそうになった。母以外の人の胸に飛び込んで泣きたくなったのは初めてだ。
 そんな気持ちに気づいて、ひかるはあわてて顔を上げた。
「大丈夫、何とかなるもん」
 晃司の心配そうな目は何も変わらなかった。
 晃司に促されて教室へ戻りながら、それでもひかるは森川涼の言葉が気になっていた。
 本当に父は殺されたのだろうか。もし、それが本当なら、いったい誰に?何のために?
 仕事を探さなければと思ったことも、学校をやめなければと思ったことも、ひかるの脳裏からは消えていた。
 父がもし殺されたのだとしたら・・絶対に犯人を許さない。私たちから父を奪い、母を苦しめた犯人に、きっと復讐してやる。
 ひかるの心の中は燃えたぎっていた。

「運命のひと」 第5話終わり 第6話へ続く
dancingwolf * 連続小説 * 19:13 * comments(1) * trackbacks(0)

厄介者(「運命のひと 第4回)

【厄介者】世話を焼かせる者。他人に迷惑をかける人。いそうろう  広辞林より
***********************************
 その家は、太陽に照らされて輝いていた。出窓には真っ赤なゼラニウムが咲き誇り、らせんを描いた階段が、玄関から2階へとつながっている。
 出てきたばかりの家を思い出して、ひかるは泣きそうになった。けれど、泣いてなどはいられない。精一杯、明るく元気な顔で挨拶しなければ、とひかるは決めていた。
 そこは志保里の大学時代の友人の家だった。しばらくの間、志保里とひかるを泊めてくれるという。
 志保里の友人・陽子は、早口で口調が明るい。
「まあまあ、大変だったわね、志保里」
と、志保里のことを気づかい、ひかるにも
「気を使わないでいいのよ」
と優しく声をかけてくれた。ひかるはホッとした。美和子のことがあってから、大人の女に恐怖を感じていたのかも知れない。
 陽子の夫・明義は多忙な商社マンで日頃は帰宅も遅く、一人息子の一樹は、全寮制の進学校に入っているのだという。
「だから、一人で淋しかったのよ。気が済むまでいてくれてかまわないから」
 行くあてのない二人にとって、ここはどこよりも安全な避難場所に思えた。ここならば、立石のおじさんの奥さんは来ないだろう、と。
 用意された寝室は、布団がふかふかと柔らかくて、陽子が二人を歓迎してくれる気持ちを感じて、ひかるの心はふんわりと温かくなった。ここなら、やっとゆっくり眠れる。
「お母さん、いい友達がいてよかったね」
 あくび混じりでそう言いながら、ひかるは父が死んで以来初めて、深い眠りについた。

 志保里もその思いは同じだった。陽子は大学時代から面倒見がよくて明るい性格だった。志保里は授業に出るだけで精一杯だったから、陽子達のグループと一緒に行動したことは余りなかった。それでも年賀状のやりとり程度は続き、今はこうして家に泊めてくれる。ありがたかった。
 今のうちに、仕事を探すのだ。住み込みで働けるところか、会社の寮があるところなら、ひかると一緒に暮らせる。大学を出てすぐに結婚し、その結婚生活も病気がちで療養生活も繰り返しながら過ごした志保里は、社会経験もほとんどしていない。そんな自分に職が見つかるのだろうかと不安はあったが、それでも、何とかしなければならない。ひかるのために。

 志保里が仕事を見つけるまで、ひかるはこの家から学校に通うことにした。
 学校の門をくぐるのは久し振りだった。塾もあの父が死んだ日以来顔も出していない。いつもは通い慣れた道なのに、なんだか今日は転校生のような気分だった。たった半月の間に人の運命は変わってしまうのだ。
 それまで仲良くしていたクラスメートたちも、悔やみの言葉はかけてくれたけれど、どこか遠巻きにしているような感じがする。無理もない。降って湧いたような不幸に襲われた友達にかける言葉など、中学三年生はまた持ち合わせていないのだ。少し前までのひかるがそうだったように。
 ひかる自身も、まだ明るい顔でみんなの中に入っていけるほど心が回復しているわけではない。昼休みもひかるは、校庭の隅にある果樹園のベンチにぽつんと座って過ごした。
 ふっと、目の前に人影がさして、ひかるはうつむいていた目を上げた。晃司だった。晃司もうつむいたまま、ひかるに向かって
「悪かったな」
と呟いた。美和子のことをいっているのだとわかったが、ひかるは何と答えていいのかわからない。晃司が悪いわけではないのだ。けれど、返す言葉がみつからないまま黙っていると、晃司もそれ以上何も言わずに、駈けていった。
 ひかるはため息をついた。晃司は幼馴染みで、ついこの間まで冗談を言いあっていた仲なのに。それを思うと、また死んだ父が恨めしくなってしまう。ひかるはその思いを断ち切るように立ち上がった。やめよう。今は考えまい。ひかるにできるのは、これ以上母を心配させないこと。そして、お世話になっているうちにできるだけのことをすること。それくらいしか思いつかなかった。

 ひかるが家事の手伝いをしてくれるのを、陽子は喜んだ。
「やっぱり女の子はいいわよねぇ。うちのなんかもう、高校生でしょ、育ち過ぎちゃって、声なんかも太くって、全然可愛くないの。ウンザリしちゃうわよ」
 そう言ってひかると志保里を笑わせてくれる。志保里の仕事はなかなか見つからないようだが、ひかるは久し振りに得た明るい生活に心から安堵し、もうしばらくここにいたいと思っていた。
 週末には、それまで挨拶しかしたことのなかった陽子の夫・明義にも会い、一緒に食卓を囲んで楽しい時間を過ごした。明義は声の大きい元気なオジサンで、仕事で行った海外の話をたくさんしてくれた。陽子と同じように、「気の済むまでいてくれていいから、遠慮なんかしちゃダメだ」と言ってくれ、ひかるは心から安堵した。
 
 だが、それからしばらくして、陽子の様子が微妙に変わりはじめたのにひかるは気づいた。ひかるが家事をしようとしても「いいわ」と素っ気なく断り、志保里には就職のことを根ほり葉ほり聞きだし、ハッパをかけるようになった。「贅沢言ってたらきりがないのよ。あなたみたいにずっと専業主婦だった人に、そんな条件のいい仕事なんか見つかるはずないんだから。夜の仕事だっていいじゃないの」と。
 明義は以前よりも仕事が暇になったのか、早く帰ってくるようになり、ともに食卓を囲むのだが、陽子の表情は硬くなりがちで、以前よりも会話は弾まなくなった。
 ひかるはそれを気にかけたが、志保里は「ひかるは気にしなくていいの。お母さん、仕事探し頑張るから」と言うだけだ。
 ひかるの不安は的中し、陽子は突然切り出した。「いい加減、仕事決まらないかしら。うちも、慈善事業をやってるんじゃないのよね」と。
 帰り道、駅でばったりあったからと言って、志保里と一緒に帰ってきていた明義は、あわてて「何言ってるんだよ。友達が困ってるのに」と陽子を制したが、陽子は表情を強張らせて部屋を出て行ってしまった。
 その夜、ひかるはとなりに寝ているはずの母の姿が見えないことに気づいた。「お母さん?」と、その姿を探すと、志保里はリビングで陽子と向かい合って座っていた。
 陽子は低い声で話しているが、志保里をにらみつけるその目は、美和子のそれにどこか似ている。そして、ひかるの耳に信じられない言葉が飛び込んできた。
「うちの主人に手を出してどうしようって言うの」
「手を出すなんて、そんな」
「あんたはいつもそうよ。学生時代から。いかにもひ弱ではかなげな顔をして、寄ってくる男を手玉にとって」
「待って、陽子。私は何も」
「みんなあんたには泣かされてたのよ。その上、被害者面をするんだものね。おかげでこっちが悪者扱いじゃないの」
 陽子は憎々しげに言い放った。
「出て行ってよ、私のうちで泥棒猫みたいな真似しないで」
 ひかるは動けなかった。母を助けたくて飛び出そうとしたけれど、できなかった。あんなに親切で明るかった陽子の変貌ぶりが恐い。美和子も陽子も、どうしてあんな夜叉のような顔になるのだろう。
 その一方で、ひかるは明義の顔を思い浮かべた。おじさんが母を見るときの表情。母に見せる笑顔。何気ないようでいて細かな親切。そうしたものはただの善意だとひかるは思っていた。けれど、陽子の言葉を通すと、それは全く違って見える。保の親切心が薄汚れているように感じてしまう。
 陽子はひかるに気づかないまま出ていった。
 人の気配に振り返った志保里はひかるを見て、泣き笑いのような表情を見せた。ひかるはぎゅっと、その母の肩を抱きしめた。
 お母さんは美しい人なのだ、と改めてひかるは思う。ちょっと力を込めたらすぐに割れてしまう、薄い陶器の人形のように。もろくてはかなげな美しさに人は嫉妬を覚えるのかも知れない。
 けれど、今は母の美しさが悲しかった。不幸をしか呼ばないような、蜻蛉のような美しさが。

 ひかると志保里は翌朝、まだ陽子と明義が眠っているうちに、家を出た。世話になったお礼を書いたメモだけを残して、逃れるように。
 行き先は、どこも思いつかなかった。ひかるだけではなく、志保里にも。あてもなく、二人はただ歩いていた。どこにも、希望は見えそうになかった。

「運命のひと」第4話終わり 第5話へ続く
dancingwolf * 連続小説 * 23:46 * comments(1) * trackbacks(0)

哀惜(運命のひと 第3回)

【哀惜】(人の死などを)悲しみ、惜しむこと。 広辞林より
*****************************************
「人殺し!」女の甲高い声が響く。
茫然としていたひかるは、あわてて止めようとした。
「おばさん、やめてください!」
しかし、美和子はひかるを押しのけるようにして志保里の前に立ち、
「この女が殺したのよ!この女が!」
と、鬼のような形相で見下ろしている。
美和子が今にも志保里のことを足げにしそうで、ひかるは母をかばって立ちはだかったが、美和子の口からはまだ憎悪のこもった言葉があふれ出た。
「私の大介さんを返して!返してよ、人殺し!」
大介さん・・それは父の名前だ。何故この人が父のことを「私の大介さん」と呼ぶのか。まさか。まさか父がこの人と・・ひかるには到底信じられないことだった。
 ひかるの目が、それを訴えていたのかも知れない。美和子はひかるに目を向けると、一気に吐き出した。
「私たちは愛しあっていたのよ。愛しあっていて、これから一緒に暮らそうって。二人で逃げようって。そう決めてたのに・・この女はそれを知って、大介さんを殺したのよ」
 だが、この人は幼馴染みの晃司の父で、立石のおじさんの奥さんで、立石の叔父さんと父は親友で、そして両家はついこの間まで仲睦まじく、親戚のようなつきあいをしていた・・だから、ますます美和子の言葉が真実とは思えなかった。ましてや、母と自分をおいて駆け落ちなど父がしようはずもない。
 ひかるがそれを言うと、美和子はあざ笑った。
「あの人は、大介さんは、こんな女愛してなんかいなかった」
 まだ美和子に突き飛ばされたまま立つこともできずにいる志保里に向かって
「こんな女、病気ばっかりで、女としても母親としても役立たずだって大介さんいつも言ってたわ。お荷物だったのよ、大介さんには」
 許せなかった。父が死んだばかりだというのに、訳の分からないことを言いだし、何より母を侮辱したのが、ひかるの怒りに火をつけた。
 ひかるは思わず美和子に向かっていった。どちらかと言えば優等生で、今まで親に逆らったこともない。ましてや友人の母親に、大の大人につかみかかるなんて、ひかるは考えたこともなかった。
 だが、今のひかるはただ怒りに突き動かされていた。美和子にばかりではなく、死んでしまった父に対する怒りも、そこにはあった。ただ、ひかるはそれに気づいていなかった。
 美和子は怒りの声を上げたが、ひかるはもみあいながらも思い切り力を込めて、美和子を押した。ひかるに体当たりされてよろめいた美和子は玄関のドアから閉め出された。
 罵り声は続いたが、ひかるは耳を塞いでそれを無視した。
 志保里は、居間で大介の遺影を見上げていた。その肩が震えている。それを見た瞬間、ひかるは母に飛びついた。
「悔しい、お母さん、悔しいよ」
 ひかるは母の胸に顔をうずめた。母の肩が驚くほど薄くなってしまっていることに胸の痛みを感じながら。

 大介の死に続いてひかる親子に降りかかった不幸は、それだけではなかった。大介の会社はとっくに破綻していたのだ。
 大介は脱サラをして、8年前に自動車アクセサリーの販売会社を設立した。最初は好調に収益をあげていたが、取引先の企業が倒産した頃からおかしくなってしまったらしい。6人いた社員が次々と会社を去り、ここ1年は誰も雇うことはできなかった。それどころか、仕入れ代金の未払いや在庫過剰、賃金の未払いなどがかさみ、住んでいる家はとっくに借金の担保にはいっていて、サラ金にも借金があるという。
 生命保険の払込金にすら手をつけていたらしく、雀の涙ほどの保険金が支払われるだけだ。もちろんひかるはそんなことを知る由もなかった。大介は不安な素振りなどひかるの前ではかけらも見せず、いつも笑顔を浮かべていたのだから。
 既に自分たちの住む家すら債務者のものになっていると知って、ひかるは愕然とした。では、母と自分はこれからどこへ行けばいいのだろう。母の実家は両親とも亡くなっていたし、父の家族は母に冷たかった。病弱で何かと寝付くことの多い嫁は、大介の両親や親類の間では「ハズレ」で、冷たくあしらわれていたから。
「兄さんも、何も死ななくたってよかったのよ。本来ならねぇ、夫が借金背負ったら、妻が必死で働くものなのにねぇ」
 大介の会社が倒産していたことを知った富佐子は、志保里の方をちらりと見ながら嫌みを言った。ひかるは唇をかみしめた。
 そんなひかるの顔を見て、啓一はいつものように富佐子をなだめにかかった。
「まあまあ、自殺と決まったわけじゃないんだから。今まだ警察が調べてるんだろう」
「自殺に決まってるんじゃないの。借金抱えて、どうにもならなくなって、追いつめられて死んじゃったのよ、兄さんは」
 そう言って富佐子は鼻をすすり上げた。
「兄さん、ほんとは小心で優しい人だったから。仕事はうまくいかないわ、妻は病気だわで・・疲れ果てちゃったのよ」
 ひかるはうつむいたままだった。自殺、だったのだろうか、父の死は。そんなはずはないと思っていた。けれど、家族が何も知らないところで借金を背負い、不倫をもしていたかもしれないのだ。もう、刑事にかつて言ったように「父が自殺するはずがない」とは到底言えなくなってしまった。
 多額の債務だけを残し、病弱な母を非難の嵐に放り込んで一人で逝ってしまった父を、ひかるは初めて憎らしく思った。
「私たち、これからどうなるの?」
 声を震わせたひかるに、志保里が珍しく強い声を出した。
「頑張って、二人で生きていこう。ね、ひかる」
 父が死んでからただひたすら茫然としていた母が、やっと力を取り戻したのかも知れない、とひかるは思った。そう、これからは二人で、二人だけで生きていかなければならないのだ。
 
 それから数日後、ひかるは最後に我が家を振り返った。朝日を受けて光り輝いていた。うちがこんなに太陽を浴びて輝いていたのだと、今までひかるは知らなかった。
 母が丹精していた庭の花々も、ハーブガーデンも、こんなに美しいものだと思ったことはなかった。ひかるの部屋の出窓も、ウッドデッキのベランダも、煉瓦を敷き詰めた駐車スペースさえ、今となっては愛しく、引き離されるのが辛い。哀惜という言葉の意味を、ひかるは初めて実感した。
 立ち去りかねて家を見つめているひかるの背を、志保里がそっとなでた。ひかるは気づいた。母は、家に背を向けている。わずかな荷物を持って玄関を出て以来、その視線はずっとうちの先の道に向けられていた。決して振り返りはしないという決意なのだと思った。
 自分も振り返らずにいこう、とひかるは決めた。今、ここから母と二人の生活が始まるのだから。
 二人はようやく歩き始めた。ひかるが志保里の分の荷物を持ち、互いの顔を見ながら、ほんの少し笑顔のようなものを浮かべる。
 そうやって歩き始めた二人をじっと見つめる小さな陰があったことにひかるは気づいていない。
「ごめん・・」
 呟いた晃司は、二人の姿が見えなくなるまで立ちつくしていた。

運命のひと 第3回終わり 第4回へ続く
dancingwolf * 連続小説 * 12:25 * comments(0) * trackbacks(0)

茫然(運命のひと 第2回)

【茫然】ぼんやりとしてとりとめのないさま。気抜けしているさま。限界のあきらかでないさま。「茫然自失」茫然として我を忘れること。 広辞林より
*****************************************
 カンカンカンカン・・鉄の階段を駆け下りる音が響く。背後から「ひかる!」と呼ぶ声がしたが、振り返らなかった。
 胸がバクバクして張り裂けそうだ。心臓の鼓動までがウソだ、ウソだ、と叫んでいる。
 外は、台風の風が吹きすさび、大粒の雨が降り出していた。
 塾の外階段を駆け下りて、傘も差さずに駅への道をひたすらに走りながら、何度も何度も転びそうになった。足がもつれて、体が思うように動かない。周りの人たちが怪訝そうな顔で見ていたが、何一つ目には入らなかった。
ひかるは、ただ、駆けていた。「ウソだ、ウソだ」と呟きながら。嘘に違いない。お父さんが死んだなんて、あり得ない。そう心の中で繰り返しながら、それでも足は前へ前へと向かっていた。ひたすらに。

 その知らせは、塾の授業中にもたらされた。塾のスタッフが、教室までひかるを呼びに来たのだ。それは滅多にあることではなかった。この塾は厳しい方針をとっていて、よほどのことでなければ授業中の生徒の呼び出しは許可されなかった。
 事務室の電話に出たら、父の妹の富佐子叔母さんの声がした。お母さんが倒れたのか、とひかるはとっさにそう思った。が、富佐子叔母さんが告げたのは、父の死だった。

 富佐子叔母さんの言葉は嘘ではなかった。警察で母の姿を見たときに、ひかるはそれだけを悟った。
 全く血の気のない母が、今にも倒れそうな様子で、廊下にある椅子に座り込んでいた。その側で、富佐子おばさんが「いったいどう言うことなのよ」と、金切り声をあげ、夫の啓一叔父さんがそれをなだめている。
 ひかるは駆け寄って、母の手を取った。母はやっとゆっくりと顔を上げてひかるを見ると、その手をぎゅっとつかんだまま再びうつむいた。その目から涙がこぼれてひかるの手の甲に落ちたけれど、ひかるにはまだ実感がない。だって、死ぬはずがないではないか。父は今朝、一足先に出かけるひかるにいつものような笑顔を見せていたのだから。
 中年の男と警官がやってきて、志保里と富佐子、啓一を霊安室に案内するという。
「私も行きます」
ひかるもすぐに立ち上がったが、刑事らしき中年男は首を振って、志保里に何事かささやいた。これ以上血の気が無くなるはずがないと思われた志保里の顔がますます色を失って、ひかるは思わず母を支えようと一歩踏み出した。
 けれど、志保里はゆっくりとひかるに背を向けた。
「私も行く!お母さん!」
 叫んだけれど、誰も振り返りはしなかった。

 ざーっと激しい水音が続いている。その間に、うっうっと苦しげな声が聞こえる。トイレで富佐子が吐いているのだ。啓一も青い顔をして、ハンカチを口元に当てていた。一番顔色のない志保里が、黙ったままぼんやりと空を見ていた。
「お母さん、私も、私もお父さんに会いたい」
 ひかるは母にそう言ったが、啓一はあわてて止めた。
「やめた方がいい。ひかるちゃんは見ちゃダメだ」
「どうして?だって、本当にお父さんが死んだのなら、私、お父さんに会いたい!最後にお父さんの顔みたい!」
「悪いことは言わない。みてごらん」
と、啓一は目でトイレを指し示した。
「大人の富佐子だってああなるんだから」
啓一は声を震わせた。また記憶が蘇ってきたらしい。
「大丈夫だから、ね、叔父さん、会わせて!お願い」
小柄な啓一の肩を揺さぶらんばかりのひかるに、志保里がやっと口を開いた。
「ひかるは・・お父さんの笑顔だけ、覚えててくれればいいの」
「だって!」
「親のいうことは聞くもんだ、お嬢ちゃん」
言いかけたひかるを、そう言って遮ったのは刑事らしき中年男だった。
「飛び込みの遺体は、見られたもんじゃない」
「飛び込みじゃありません!」
ひかるは、刑事をにらみつけた。
「お父さんは、父は、電車に飛び込んだりしません!」
そう、父が自殺するなんてあるはずがないのだから。
 ひかるの言葉に、刑事はぼりぼりと頭を掻いた。そう言われてもね、とでも言うように。
「父は、自殺なんかしません。自殺なんかする理由、ありませんから」
「ま、それはこれから追々調べます。事故、自殺の両面で調査しますから」
それは、志保里にかけた言葉のようだった。しかし、志保里は聞いている風もない。まるで魂が抜けだしてしまったというように。
 去っていく刑事に保が頭を下げた。ひかるは、その背をにらみつけたままだ。志保里はようやくノロノロと椅子から立ち上がった。次の瞬間、振り返ったひかるの目に、母がスローモーションのように倒れていくのが映った。
「お母さん!」

 それから志保里は寝付いた。通夜にも、葬儀にも出られなかった。富佐子は訪れた親類に父の遺体のことで愚痴をこぼし、親類に嫌がられていた。大介の会社の人間は誰も現れず、富佐子は「いくら小さい会社だからって、社長の葬儀に社員が来ないってどういうことよ」と、ことあるごとに怒りの言葉を口にし、いつものように啓一になだめられている。
 実質的に葬儀を取り仕切ってくれたのは、晃司の父、立石雄一だった。葬儀社にキビキビと指示を出し、雄一と大介の大学時代の友人、知人、近所の人々への連絡を取り、志保里の様子を気づかい・・と、彼がいなければ葬儀は執り行われなかったに違いない、と周囲の人間も思った。
 通夜の会場から人がいなくなった深夜、雄一は一人で棺の前に座り、遺影を見つめていた。ひかるがそっと部屋に入っていくと、雄一はゆっくり振り返ったが、その目は濡れていた。
 お父さんの親友の立石のおじさんが泣いている。お父さんのために・・その時、やっとひかるは父の死を実感した。父は逝ってしまったのだ。母と自分をおいて。さよならの言葉一つかけないまま。
 ひかるの目から涙が溢れた。雄一が、ひかるの頭をそっとなでる。その手は父の手より大きかった。そして、もう父の手がぽんぽんと自分の頭に触れてくれることはないのだと気づいて、思わず嗚咽がこぼれた。
 雄一の目からも涙がボロボロとこぼれ落ちていた。ひかるは思わず雄一にすがりついて、大声をあげて泣いた。声も涙も枯れ果てるくらいに。

 父が小さな骨壺一つになって帰ってきて、全ての客が引き上げた後、ひかるは母の様子を見に行った。母はようやく起きあがり、「ごめんね、ひかる」と力無い声で謝った。
「お母さん、ほんとに役立たずだった。お父さんに叱られるわね」
そう言って無理に笑おうとする母が痛ましく、ひかるは母の肩を抱くようにして、もう一度寝かせようとした。その時だった。玄関のチャイムがけたたましく鳴る。何度も何度も。
 何かあったのだろうか。不吉な予感がして、ひかるは玄関に駆けていった。
 玄関先に立っていたのは、晃司の母、美和子だった。寝乱れたままのようなもつれた髪、青ざめた顔、血走ったように赤く腫れた目、まるで幽鬼のようだ。
 晃司に何かあったんだろうか?それとも立石のおじさんに?そうでもなければ、この人のこの取り乱した様子は何なのだろう?
 ひかるが声を出そうとした瞬間、美和子がひかるの肩をつかんだ。
「返してよ!」
そう言いながら、ひかるの肩をガクガクとゆする。
「返してよ!あの人を返して!」
激しい口調で狂ったかのようにひかるを揺さぶる美和子。それを止めたのは、志保里だった。
志保里はよろよろと玄関先に出てきて、弱々しいながらも、ひかると美和子の間に割って入った。
「やめてください。この子に何をするんですか」
美和子は、キッと志保里をにらみつけ、叫んだ。
「人殺し!人殺し、人殺し、人殺しっ!」
茫然とするひかるの前で、美和子は志保里に向かって叫び続けた。
「人殺し!」
と。何度も、何度も。

「運命のひと」第2話 終わり 第3話へ続く
dancingwolf * 連続小説 * 17:23 * comments(0) * trackbacks(0)

不慮(運命のひと第1回)

【不慮】思いがけないこと。意外。用例「不慮の災難」 広辞林より
*****************************************
「また100点?!すごいねぇ、ひかる」
 聡美が、感嘆するというより、半ば呆れたような声を上げた。
「あたしなんて、30点なのにさ」
 そういう聡美だけど、声には屈託がない。ひかるは聡美のそういうところが好きだ。
「晃司も100点だってよ」
 裕樹の声だ。お調子者の裕樹。裕樹の声にも嫉妬の陰はない。裕樹は成績なんか気にするタイプではないのだ。100点のご褒美が、駅前の東明軒のラーメン餃子セット3人前なら別だけれど。
 「ほんと仲いいよな、ひかると晃司は」
 裕樹がちゃかしたが、晃司は相手にせず、
「ほらほら、塾行く前に駅前でコロッケ食べるんだろ。もう、できあがってんぞ」と、裕樹の興味をそらした。
 裕樹はまんまとその手に乗って、「あ、あ、コロッケ売り切れちゃうよ。肉の小林のコロッケ、すげえ人気なんだ」と、鞄を手にして駆け出していった。
「あーあ、あいつ、あわてて塾の教科書忘れて行ってるんじゃん」
 晃司はそう言って、ひかるを見て笑った。
「裕樹の頭ン中、コロッケでいっぱいなんだよ」と、ひかるも笑顔を返す。
 裕樹に冷やかされるのも無理はない。二人は仲が良かった。昔からだ。
というのも、ひかるの父の橘大介と晃司の父の立石雄一は大学時代からの親友で、ひかるが生まれる前から家族ぐるみのつきあいをしていたから。ひかると晃司は同じ幼稚園に通い、同じ小学校を卒業し、今も同じ中学の3年B組の同級生だ。
そして、多分、二人とも来年は同じK大付属高校に通っているだろう。そこは二人の父親の母校だった。

「うちの娘はほんと、優秀だな」
 と、父は笑ってひかるの頭をぽんぽんと叩いた。100点の答案用紙を見ながら。
「お父さんも、ひかるを見習わなきゃな」
 大まじめな顔をしてふざけた笑顔を見せる父親が、ひかるは大好きだ。
 中学3年生になって「お父さんが大好き」という子供なんてほとんどいないと知っていたけれど。
(なにしろ、聡美なんて「お父さんの後にお風呂に入るときはお湯を全部抜いちゃうんだ。親父臭くなるから」と言ってるくらいだ)
 「無理してるんじゃないの?あまり遅くまで勉強してるんじゃないのよ」と、世の中の母親が聞いたらひっくり返りそうなことをいうのが、ひかるの母・志保里だ。
 無理もない、とひかるは思う。お母さんは体が弱いから、と。志保里は、心臓が弱く、ひかるを生むのさえ医師に反対されたという。それでも「絶対生む」と言い張って、ひかるを生んだ。
 それを聞いて、ひかるはちょっと泣いた。お母さんは、命を犠牲にする覚悟で自分を生んでくれたのだ、と。
 小さいときから入院したり、家を離れて療養したりしていた母親が、正直言って恨めしかった。でも、母の体がそうなったのも、自分を生んでくれたかもしれないと思うと、そんな気持ちを抱いたことが後ろめたい。
 それ以来、ひかるの夢は医者になること、そして母親の体を治すこと、になった。そういうことを言うと、なんだかすごくいい子ぶってるようだから、誰にも秘密にしていたけれど。
 晃司だけは知っている。書店で、「医師になるには」という本を買っているところを見られてしまったからだ。
 でも、晃司は何も言わなかった。母親の体が弱いことを知っているからかもしれない。晃司は元々他人の秘密や隠しておきたいことをペラペラしゃべるタイプではなかった。晃司自身が、触れて欲しくないものを持っているからかも知れなかった。
 晃司の母親は、ひかるの母とは違う意味で子供にとっては恨めしい存在かもしれないとひかるは思う。
そんなことを考えてはいけないのかもしれないけど、でもひかるは正直言って、晃司の母・美和子が苦手だった。もっとはっきり言うと恐かった。
 家族で食事に行ったり、バーベキューをしたり、旅行に行ったりするたび、美和子はまるで監視するかのような視線をひかると志保里に浴びせる。それを隠そうともせず。
 あれは、そう、まだ小学生の頃。ひかるは晃司とふざけあって小川の中に落ちてしまい、二人で抱き合うように立ち上がったところへ美和子がやってきた。美和子は、きっと目をつり上げると、何も言わずに思い切りひかるの頬をぶった。
「何するんだよ!」
 晃司が仰天して怒鳴ったが、美和子はひかるを見据えたままだった。その目にははっきりと憎しみがあった。美和子は怒って暴れる晃司をせき立てて、その場を離れた。そして、体調が悪くなったからと言って、晃司を連れて先に帰ってしまったのだ。
 10歳になるかならずかの子供に、その憎しみをたたえた目は恐怖以外の何ものでもなかった。ひかるは、美和子にぶたれたことを誰にも告げず、晃司の謝罪も受けなかった。何もなかったふりをしたかったのだ。できれば夢だったのだと思いたい。
 それからだ。会えば無邪気に言葉を交わし、ふざけあっていた晃司と、どこかぎこちない関係になってしまったのは。
 父の大介は「お互い意識するようになったか。甘酸っぱい年頃だな」などと一人納得し、志保里は何も言わなかった。お母さんも、おばさんの悪意を感じているからかもしれないと、ひかるは思った。
 それがきっかけになったのか、両家のつきあいは以前よりも間遠になった。もっとも、雄一も大介もそれぞれの仕事に忙しく、志保里は相変わらず体調が優れず、子供達が受験を迎える年齢になったのだから、それが当然なのかも知れなかった。
 それでも、別に何も支障はなかった。優等生ゆえ、クラスでちょっと煙たがられているところはあったが、仲良しの聡美はいるし、部活のブラスバンド部も1学期までやっていて、やりがいがあったコンクールでもいい線まで行った。受験勉強は順調だったし、クラスの雰囲気もいい。担任の三山先生は素敵な女の先生で話も合う。父親は相変わらず陽気で、母親も少し体調が落ち着いてきたようだ。
 中学生最後の年を何事もなく過ごせるとひかるは思っていた。受験が終わったら、そして希望校に合格したら、初めての海外旅行に連れて行ってもらえる約束をしている。
 何の不安もなく、未来へ通じる扉は輝いているように思えた。
 だが、ひかるの幸せな日々は突然終わった。それをひかるは知らなかった。
 あの日、気の早い台風がやってきたあの日、父が駅のホームから転落するその時まで。そして、「不慮の事故で父が死んだ」と知らさせるあの瞬間まで。

「運命のひと」第1話 終わり 第2話へ続く

dancingwolf * 連続小説 * 23:01 * comments(0) * trackbacks(0)

嫁は庭からもらえ

【嫁は庭からもらえ】嫁は、自分の家より目下のところからもらえば、一生懸命仕えるから家のためになるということ。
(暮らしの中のことわざ事典 折井英治編 集英社刊 より)
********************************************
結婚の許しをもらうために、彼の実家を訪れたとき、近い将来姑となる人が言ったのである。溜息とともに。
「まあ、嫁は庭からもらえ、というからね」と。
彼の実家は、地方では名家として知られていて、彼の父も、その父も、そのまた父も、代々村長を務めていた。長男である彼もまた、将来は父親の後を受けて村長になることが当然のように予定されていた。
私はと言えば、父は時代遅れの印刷工場の職工をしていて、コンピュータのDTPによってどんどん仕事がなくなり、私がOLとして就職する頃には失業状態で、我が家の家計は昼間はスーパーの鮮魚売り場で、夜はスナックの皿洗いで稼いでくる母の収入が支えていた。
そんな一家から嫁をもらうことなど、彼の実家にとっては「想定外」のことだったに違いない。
しかし、この息子がまた、彼の母親にとっては頭痛の種だったようだ。
長男だというのに家業を継ぐのを嫌い、そればかりか何かと周囲から注目され、束縛される暮らしがイヤで、大学を終えて無理矢理実家に帰らされるやいなや、村に一軒だけの飲み屋のホステスと手に手を取って駆け落ちしてしまったのだ。
名家の面目丸つぶれ、である。
その醜聞をどうにかこうにかもみ消して、何とか故郷に連れ戻したものの、今度は従兄弟の婚約者に手を出そうとして大もめにもめ、ついに勘当同然で放逐され、彼にとってはやっと、心から望む自由を手に入れたのである。
彼に言わせると、駆け落ちする相手は誰でもよかったが、一番実家にダメージを与える相手を選んで飛び出したのだという。従姉妹の婚約者は、向こうの方が誘ってきて、いけ好かない従兄弟の鼻を明かすのにちょうどいい機会だと思ったのだそうだ。
彼の言葉を100%信じるわけにはいかないのだろうが、何となくその気持ちは分かるような気がした。
それきり実家とは連絡を取っていなかったのだが、彼を可愛がってくれた祖母が病に倒れ、いよいよ危ないとなったので、彼としてもようよう親や家族を安心させる気になったらしい。つきあっていた私を連れ、結婚の挨拶のために実家に戻ったのだった。
祖母の死に目にも間に合い、彼としてはそれで義理は果たしたと考えていたようだった。もちろん私はそれほど脳天気にはなれなかった。
ほどなくして、私は彼と入籍し、友人達だけに祝福されて結婚生活をはじめた。
本人は嫌がっていたけれど、夫はやはり裕福な家に生まれ育ったお坊ちゃんで、ひどくわがままなところがあるかと思えば、お人好しな一面も見せた。
自分の好きな人間とはうまくやっていけるけれど、いったん嫌いとなると相手が何をしても「あいつはやなヤツだ」と決めつけ、ことに仕事先ではそれが顕著に出て、何度も転職を繰り返した。
そういう欠点はあったけれど、都会の片隅で肩を寄せ合って暮らしていくぶんには差し障りはなかった。私は、慎ましい幸せで十分だったし、大きな望みもなかった。その暮らしに十分満足していたのだ。

事態が一変したのは、彼の父親が急死したからだった。実家から知らせが来て、私たちはとるものもとりあえず、夫の実家に向かった。
まだ60をいくつ囲えたばかりの父親の死に、夫は動揺していた。義理の母も魂が抜けたようだった。
親類や義理の父の仕事先の人、そして近所の人などに教えられ、やっとの思いで葬儀を終え、初七日を迎えた時、夫は母親に泣きつかれ、親類に懇願され、「お前が家に戻らないならご先祖様に申し訳が立たないから首をくくる」とまで母に掻き口説かれて、ようやっと実家に帰る決心を固めた。
私の意見や希望は誰にも、夫にも、義理の母にも、親類の一人として聞かれなかった。この村では、夫の決めたことに妻が従うのは当然のことで、妻の意見などないも同然だったのだ。
私はあきらめのいい方である。幼い頃からあきらめなければならないことが多すぎたせいだろうか。私は夫の決断を淡々と聞き、「あなたがそう望むなら」と、あっさり承諾した。
確かに、夫婦二人で暮らす方が私にとっては好ましかったが、世の中にはあきらめなければならないことがあるのだ。そう、それも山ほど。

夫が実家に戻った途端に、魂の抜けたようだった義母は、かつての元気を取り戻した。名家の誇りも一緒に。
あれほど、名家の跡取りとして周囲の人々の注目を集めたり、必要以上にちやほやされたり、逆に中傷されたりするのがイヤだったはずの夫は、すっかり変わってしまった。ちやほやされることを喜び、注目を浴びるのを当然のように感じていた。
そして、村会議員に立候補して、順当に当選し、次は村長を狙う、と公言した。「そうなったら村長夫人だぞ、嬉しいだろう?」と夫は言ったけれど、私はちっとも嬉しくなんかなかった。普通に、人々の間で埋もれるように暮らしていきたいと願っていたのだから。
それでも、選挙の手伝いをしないわけにはいかない。私は夫とともに後援者の間を回ったり、時には一人で婦人部の集まりに顔を出し、誰彼なしに深々とお辞儀をしたり、握手をしたりして回った。婦人部の実力者とか、村の顔役と呼ばれる人には特別に丁寧に、まるで王様としもべのように振る舞った。もちろん相手が王様で、私がしもべである。
そうして私なりに頑張ったつもりだったが、次の村長選挙で夫は落選した。夫がいない間に村にやってきた大きなスーパーのオーナーに敗れたのだ。
夫は怒り、酔っぱらって私に向かって言い放った。「お前と結婚したのが失敗だったんだ」と。スーパーのオーナー夫人は、誰もが知る農政族の大物議員の娘だった。
庭からもらった嫁は、高いところからいただいてきた嫁には到底叶わなかったのだ。

この村に帰ってから、夫は変わってしまった。
なのに、私は何も変わらない。ずっと自分をあきらめ、夫をあきらめ、ため息をつきながら暮らしていた。
いつまでたっても子供が授からず、姑からも親類からも、当の夫からも嫌みを言われた。けれど、私は結婚前、夫の前につきあっていた男性との間で2回子供を中絶している。十分避妊に注意しているようでも、身ごもってしまう、そういう体質なのだ。
もちろん、そんなことは夫にも姑にも一言も言っていない。そんなことがばれたら、「庭先からもらった嫁」は「公衆トイレからもらった嫁」に格落ちされてしまう。これ以上おとしめられることはまっぴらだった。
そのうち、選挙運動員としてきている女と夫の浮気を知った。知ったけれど、何もなかった。少なくとも私は騒ぎ立てず、夫は知らん顔で、周囲はニヤニヤしながら口を閉ざしていた。
それもこれもあきらめなければならないのだと思っていたある日、天啓が降りた。
私の目に飛び込んできたのは、主婦向け雑誌の見出しだった。
「あきらめないで。あなたは変わる」
その言葉が、私の目を、そして心を射抜いた。
記事を読んでみると、それは浪費癖のある主婦が節約体質に変わる、という他愛もないものだった。
けれど、何だ、とは思わなかった。そう、人は変われる、のかもしれない。あきらめなくてもいいのかもしれない。私だって。

以来、私は暇を見つけては女性の自立を促す講演会に足を運んだ。老人介護をする女性の会、子育て支援を訴える母親達の会合、有機農業に参加した若者達のミーティング、環境保護を訴える主婦達のNPO・・などなど。
最初はおずおずと顔を出すだけだったが、どこも一人でも参加者が欲しいのか、みんなたいそう親切に接してくれた。やがて、仲間の一人として加わり、私はそこでいろんな事を学んだ。矛盾に満ちた社会の仕組み、苦しんでいる人たち、それを見捨てようとする人たちと、見捨てられる人たち。
それでも、仲間達はあきらめずに少しでも前に進もうとしていた。
あきらめなくていいんだ、あきらめたらそこで全てが終わるんだ。それが私にもわかった。
その一方で、夫の選挙の資料にも目を通すようになった。選挙資金の流れ、どんな金がどこへ動いているのか。どんな人たちがうま味に群がり、どんな人たちがおこぼれに預かっているのか。
私には解らないこともたくさんあったが、あきらめはしなかった。あきらめるより考える方が楽になってきたのである。

2年後、村長選挙の公示の日、私は家を出た。
そして、私は私のために用意された選挙カーに乗った。
村のスーパーの角で、私が初めて演説に立ったとき、向かいから夫の選挙カーがやってきた。夫は私の姿を認め、きょとんとした顔で、私の後ろに立つのぼりを見た。そこには私の旧姓が書いてある。もっとも、夫はそれを私の旧姓だと気づくだろうか?
私は第一声を張り上げた。「村長候補、脇坂さんのご健闘をお祈りします。しかし、私はこの度、村長選挙に立候補し、脇坂さんと闘うことになりました」
夫の顎がガクンと落ちた。運動員達は呆気にとられて口をぱくぱくしている。
それを見ると心の底から勇気が湧いてきて、私は生まれて初めての演説をなめらかに、そして力強く進めていくことが出来た。
旧弊な村の人たちに、夫と別れて村長選挙に出る女がどれほど反感を呼ぶか。それは解っている。けれど、敢えて、選挙の結果は分からない、と言おう。なぜなら、私はまだあきらめないからだ。
庭からもらった嫁は、一人で歩く女になったのだ。
dancingwolf * ことわざ * 12:24 * comments(0) * trackbacks(0)

馬には乗って見よ、人には添うてみよ

【馬には乗ってみよ 人には添うてみよ】:食わず嫌いをしたり、用心ばかりしていたのでは物事は進まない。馬の良し悪しは、ただ見ただけではわからないもので、乗ってみて初めて解る。人も見かけだけではどういう人物かわからない。一緒に暮らしたり仕事をしたりして初めて良くわかる。(暮らしの中のことわざ事典 折井英治編 集英社刊 より)
********************************************
38歳、独身、世にいう負け犬、そして処女・・。前3つはいまどき珍しくもないけど、最後のはいかがなものかと思う。
何も私だって、それがいいとは思っちゃいない。別に男嫌いなわけでも、結婚前は清らかな体でって考えてるわけでも、処女に価値があるとも思っていない。それどころか、かなり重い。もう、この年になって処女です、なんて誰にも言えなくなってしまっている。まさか、38歳、処女なんてね・・アリ?あるわけないよね。
あ、今、想像したでしょ。かなりの、そう、ふためと見られぬブスだって。そう思われても仕方ないけど、客観的に見て、そうひどいとは思えない。それどころか、時々「38にしちゃイケテルよね」と鏡の前で感心したりする。他人様には言えないけど。
じゃ、なんで?理由は簡単。とっても臆病なのだ、私は。見た目は元気で明るく、会社では広報部で社内報など作っており、各地の支社、工場などにも取材で行ったりし、とっても物怖じしない性格に見えるはず。
でも、これがいざ自分自身のことになると、ほら、よく「石橋を叩いて渡る」なんて言うけど、私は慎重すぎて、石橋を叩き割った挙げ句に、「ほうら、やっぱり渡らなくって良かったでしょ」と言い出したりするタイプなのだ。
以前、ジュリア・ロパーツが演じた、毎回毎回結婚式場で逃げ出し、結婚をドタキャンする花嫁の映画を見て、多分、あの主人公の気持ちが誰より良くわかるのは私に違いないと確信した。そう、まさしく、あの心境。直前になって「こんなはずじゃない!」という衝動が沸き上がるのだ。それって、結局、臆病心なのよね。
映画じゃ、運命の人にと巡り会わなかったからだ、なんて理由付けになってるけど。それを夢見るほど私はロマンチストじゃないし、若くもない。
もちろん、何度か恋愛はした。片思いが多かったけど、それでもおつきあいを申し込まれたこともあったし、何度かデートを重ねたこともある。「ああ、ついにいよいよその時なのね」と覚悟を決めたことだって何度かあった。
なのに、なのに・・いざその瞬間の直前に、私は逃げ出してしまう。
一度はまだ大学生の時。私の肩に込めた力がきつくなって、私は一緒に歩いていた彼の顔を見上げた。彼の顔の後ろに趣味の悪いラブホテルがあって、私を見つめる彼の鼻の穴がふくらんでいた。その鼻の穴を見上げて・・私は今で言うところの「萎(な)えー」状態になった。私は彼の腕を振り払って逃げ、彼とはそのまま気まずくなって別れてしまった。
もう一度は、社会人になってからだった。取引先の人で、私にいつも優しく話しかけてくれる人がいた。なかなか感じが良くて、何度か食事に行ったりした。ある時、シティホテルのバーで飲んでいると、部屋の鍵を見せられた。なんか、すごくアリキタリーとは思ったけど、ラブホテルなんかよりはるかにマシだったし、半分、いやかなり「そろそろこの辺でバージンとはサヨナラだわ」と思っていたところだったので、ご提案に乗っけてもらうことにした。
ホテルの部屋はシンプルだけど広さがあって、シャワールームもおしゃれな作りだった。ここでシャワーを浴びて、あのベッドに・・想像しただけで顔を火照った。ハテ、ここで処女だと言っていいものかどうか。ふっとそんな疑問が浮かび、ちょっと悩みそうになったけど、それはまあ、その時の流れに乗ろう・・等といろいろ考えているうちに、気がついたら相手の男は、もうシャツ一枚になっており、私に向かって「ほらほら、脱いで、脱いで」とせっついた。
いや、あの、それは、もうちょっとなんか、ロマンチックな展開があろうはずでしょ。そんないきなり脱げだなんて。
「あ、あの、シャワー、シャワーは?」とせめてもの抵抗をしたけど、男はもう聞いてもいず、目なんかギンギンになってて、かなり気味が悪い。
おまけに、白いシャツには汗ジミが浮かんでいて、脱ぎ捨てたパンツはゴムがゆるんだトランクスで、更に、汗くさかった。シャワーも浴びずにこんなのに抱きすくめられたら?「萎え」どころではない。吐いちゃうかも。
もう「バージンよ、さようなら」なんて展開ではなくなってしまった。この男の体臭と汗ばんだ体からいかに逃れるか、私の頭にはそれしかなかった。
で、私にとっては幸運なことに、そして相手にとっては不幸なことに、社内報のコラムを書くために、私は前日「暴漢から身を守る一撃必殺法」なる護身術講座を受けていたのである。
私を抱きしめようと飛びかかってきた男の前でいきなり身を沈め、仰天して転びそうになった男の急所をヒールのパンプスで一撃した。
男は悲鳴を上げてベッドに転がり込み、私はその間に一目散に逃げた。今思えば、一歩間違えば殺人事件になったかもしれない。もしも男性機能に障害が起きて、訴えられたら大変なことになってしまう。私はそれを心配したけれど、相手は何も言ってこなかった。担当を代わってもらったらしく、会社にはそれから一度も顔を見せなくなった。まあ、無理もないけど。

そんなこんなで、もう私はこのまま一生処女のままかも、とさすがにあきらめ気分の最近、私はなんと久し振りに胸が高まる出会いをした。
人事異動でやってきた切れ者の上司。これがもう飛びつきたくなるような好みのタイプ。40代前半、そろそろオヤジ臭も身につきそうな年頃なのに、笑顔が爽やかで、仕事が出来て、女性にたいする態度もジェントル。ほのかに香るメンズコロン、シャツもネクタイも選び方にセンスを感じる。セクハラ発言は一切ナシ。でも、部下の男たちと飲みに行くときにはそれなりにはじけ、しかも支払いは一切自腹。領収書を切らないってのもかなりカッコイイ。もう、部内はこぞって部長のファン。無理もない。
私もかなり入れあげてしまった。何たって、広報誌づくりなんて地味な仕事をきちんと評価してくれ、その上、私の能力も、欠点まで含めて把握している。
その部長が、私を飲みに誘ってくれた。私を、私に、私だけで。ああ、もう、考えただけでクラクラッと・・
いや、クラクラしている場合ではなかった。私は給料日前にも関わらず、カードを握りしめてお店へ走った。なんのって?そりゃ、勝負下着を買うための店へ、ですよ。
いくらなんでも、部長と飲みに行く日に限って、メチャクチャおしゃれするわけにはいかない。でも、下着は見えないもんねー、同僚達の目には。
そりゃ、部長には奥様がいる。可愛い娘さんもいるらしい。当然、何かあったら「不倫」になるわけで・・でも、そんなことはどうでも良かった。別に愛人になりたいわけじゃない。つくづく重いこの処女ってのとサヨナラするには、もう相手が部長クラスでなきゃどうにもなんないの。部長なら、鼻の穴ふくらませることも、汗ジミシャツ着てることもないでしょうよ。
そりゃ、部長に拒否される可能性もあるけど、私をこっそり飲みに誘うってことは、向こうにもそれなりの「キモチ」とか「オモワク」があるわけで。お酒の勢いで何とかなるってこともあるはず。何なら掻き口説いたっていい。「とにかく一回お試しでどうですか?」って。もう、そこまでイッチャッテル気分なんですよ、あと1年ちょいで40の大台に乗ろうかって私は。

そして、当日。おりしも金曜日。明日は休み。ってことは、計画も実行しやすいってことだ。何たって、雰囲気が開放的になるわけで。
普段のスーツの下に、しっかり勝負下着を身につけた私は、部長行きつけの渋めのレストランバーで、アペリティフをすすりながら、どれくらい飲ませたら部長はその気になるだろうか、あまり飲ませすぎたら役に立たなくなっちゃうだろうか等とお得意の想像を目一杯ふくらませていた。
その妄想をいっぺんにしぼませたのは、部長が差し出した1枚の写真。なんか、小太り?オタクっぽい?野暮ったい?鼻の穴ふくらませそう?な感じの中年男性が写っていた。え、これってまさか。まさか?
そのまさかだった。部長は、この小太りでオタクっぽくて野暮ったいエロっぽい中年男を私に勧めたのだ。「ちょっと会って見たらどうかな」って。どうかなって、会ってみたくなんかない。
さすがに一言で断るほど私も子供じゃない。「えー、でもー」と渋って見せたが、部長は、「いや、こいつ、見栄えは今ひとつだけど、実にいいヤツでね。今40歳なんだけど、仕事は出来るし、こう見えて男気はあるし、不器用だけど、親切で人情味も厚いしね」と、メチャクチャ雄弁になって、その男のことを褒めまくるのであった。
私はしらけ、続いて腹が立ってきた。これってもしかして、寿退社の名を借りたリストラ?要らない年増の社員を追い出そうって言うわけ?そんな手に乗るもんか。
「私、結婚は全然考えてないんです」嘘だけど、きっぱり言い切った。すると部長は、「そう頭から否定せずにさ、馬には乗ってみよ、人には添うてみよって言うよ」と笑顔を見せていった。
チクショ、悔しいけど、その笑顔、やっぱりいい男だわ。よっぽど、「私が乗りたいのはあなたなんです」とでも言ってやりたいけど、そうもいかず、私は自棄になって、目の前のワインをどんどん飲んだ。ソムリエが注いでくれるのも、部長が注いでくれるのも待たず、手酌でグビグビ飲み干した。
当然、人事不省になった。

目が覚めたら、子供の声がしていた。鈍器で殴られ続けているかのように頭が重い。目は、のりで貼り付けたかのようでまぶたが上がらない。それでも必死に目を開いて辺りを見回した。どこ、ここ?私の部屋じゃない。明るいパステルピンクの壁紙、ふんわりとした布団、さんさんと日の当たる窓。ラブホテルでも、シティホテルでもないのは確かだ。って、どこよ、ここ?
「やだー、パパが臭いおならしたー」可愛い女の子の声がする。パパ?女の子?もしかしてここは?でもまさか、おならって?怖ろしい予感がした。
私はよろよろと立ち上がって、部屋のドアを開けた。そこは、リビングダイニングで、白いTシャツに綿のパンツをはいた女の人が、私の方を見て「お目覚めですか?」とにっこり笑いかけた。女の子がそのかたわらで、珍しそうに私を見上げている。
「あの、あの」私はどもった。間違いない。ここは、ここは・・部長の家だ。
「あの、すみません。私、ご迷惑おかけしたみたいで」実は何も覚えてなかった。何杯目かのワインを飲み干した後の記憶がすっぱり途切れている。
ふっと自分をみると、多分奥様のであろう、さっぱりとした無地のパジャマを着ている。ってことは、多分、着替えさせてもらったわけね。この奥様に。勝負下着もみられたかしら。私のよこしまな「オモワク」もばれてしまってるかも。そこまで考えたら、かーっと赤くなっていた頭から、今度はさーっと血の気が引いた。もう、身の置き所がないとはこのことだった。
「どうぞ、これのど乾いたでしょう?」、そう言って、私の顔をなるべく見ないようにしてグラスを置いてくれた。気の聞く奥様だ。さすが部長の奥様。
感心してる場合じゃなかった。とりあえずハチミツレモンを飲み干して(二日酔いの体にはしみこむ美味だった)、後はとっととおいとまするしかない。それでもって・・辞表を書いた方がいいかしらん?
すると、ふぁーーーあと大きなあくびが聞こえて、部長が出てきた。ひゃあ、顔が上げられない、と私は焦ったけど、部長は私のことなど見もせずに「死ぬー。頭いてー。水ー」とうなり、ハチミツレモンのグラスを手に取ると、一気に飲み干した。
髪はボサボサで、目尻には目やにがいっぱいついていて、どうやらシャツ一枚でねてしまったらしく、そのシャツにはしっかり汗ジミがついていた。おまけに、昨日のワインのすえた匂いと汗が混じった体臭がにおう。その情けない姿で、部長はテーブルに突っ伏し、「いやあねぇ、もう」と奥様の嘆きを買い、娘さんにも「いやあねぇ、もう」とリフレインされていた。ちょっと笑えたが、原因は私にあるのだから、笑うわけには行かない。身の置き所がなくもじもじしていたら、「どうぞ、洗面所使ってください。良かったらシャワーも。こっちです」と、奥様が案内してくれた。あまりにもタイミングが良くて、「いいです」とも遠慮も何も出来なかった。
洗面所には、タオルや私が着ていた洋服なども一式置いてあって、私は遠慮なくシャワーを浴びた。だって臭いのは部長だけじゃなく、自分もそうだとわかってたから。
身支度をしていると、夫婦の会話が聞こえてくる。
「お小遣い前借り。2枚、いや、1枚!何なら、樋口一葉でいいからさー、お願い!お願いします!」
どうやら部長は頭を下げているらしい。あの口調じゃ。やっぱり笑えた。自分が原因なんだけど。そして、何だ部長も、他の男とかわらないのねと思った。でも、不思議なことにウゲッとは思わず、幻滅もなかった。
私が身支度を終えて戻ると、部長も顔を洗い、普段着に着替えていた。子供は隣の部屋でビデオか何かを見ているらしい。
私は部長の前に立ち、深々と頭を下げた。「昨日は申し訳ありませんでした」と。
部長は笑って、「いや、酔っぱらったのは俺も同じだから」と言いながら、私に腰掛けるように促した。奥様が、今度はミネラルウォーターと、温かいほうじ茶を出してくれた。本当に気のつく女性だ。
「誤解がないようにこれだけは言って置くけど、きみをリストラしようなんて考えはまるっきりない」。
おやおや、ってことは、私は酔いに任せてからんだに違いない。「どうせリストラするつもりなんでしょ!」とかなんとか・・ああ、赤面。
「ただ、本当に純粋に、きみに紹介したらどうかなと思って」そういうと部長は頭を掻いた。「悪かったなあ。俺、単純なもんで」と。
奥様が笑って、「本当にそうよ。女心が解ってないわよ」と、突っ込む。
「いやあ、でも、ほんとにあいつ、いいヤツで」と言いかけた部長に、「しつこい」と奥様がまたツッコミを入れた。夫婦漫才を見ているようだった。
そして、部長は、まさかとは思うけど辞表を書いたりしないようにと念を押し、これからも頑張って欲しいと激励してくれた。
私は奥様に駅まで送ってもらって家に帰った。
結果はとってもスットコドッコイだったけれど、私は部長とへべれけになるまで飲んで良かったなと思った。そして、「馬には乗って見よ、人にはそうてみよ」という言葉を残した先人はえらいもんだ、とちょっと思った。
月曜日になったら、私は部長に言ってみるつもりだ。お薦めの人に会わせてくださいって。どうなるかはわからないけど、馬の側に立つくらいはできるだろう。多分。
そしてうまくいったら、またこの勝負下着が役に立つかも知れない。いつか。



dancingwolf * ことわざ * 14:32 * comments(0) * trackbacks(0)
このページの先頭へ